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北向観音出現の地

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安楽寺から歩いて10分程度で、常楽寺にたどり着いた。弧を描く茅葺屋根の本堂が特徴的だ。本尊は妙観察智弥陀如来(みょうかんざっちみだにょらい)。本堂の入り口からその御尊顔を拝することができる。 妙観察智とは、存在の相を正しくとらえ、仏教の実践を支える智のことで、第六識(意識)を転じて得られるという。 本堂の裏手の山道を歩いてゆくと杉木立の中に墓石群の並ぶ広場に出た。山手側に建てられているのは重文の石造多宝塔だ。この地は北向観音出現の地であるのだ。 「平安時代の初めのころ、別所の東北にある山の麓あたりの地の底が突然ゆれ動いて、大きな火の口があき、そこから紫色の煙がたちのぼり、南方へたなびいて今の北向観音堂の桂〔かつら〕の木に止まった。その先には金色をした千手観音のお姿が見えたので、天長三年(826)北向の観音堂を建てて仏様を安置した。そこで、このありがたい仏様が地中から現れた火口跡に、木造の多宝塔を建立し、常楽寺境内の最も神聖な場所とした」( 上田市の文化財より ) 石造多宝塔を囲むように墓石群が建てられている。常楽寺の僧侶や縁者のお墓なのだろう。本堂下にある庭園には艶やかな牡丹の花が咲きほこっている。

安楽寺の六角三重塔

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北向観音から徒歩で数分、北西の位置に安楽寺が建てられている。崇福山(そうふくざん)護国院(ごこくいん)安楽寺(あんらくじ)と称し、開山は樵谷惟仙(しょうこくいせん)。ご本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)をお祀りする。信州で最古の禅寺だと云う。 杉の木立の中を抜けると階段の先に山門が開かれている。参道の突き当たりに本堂があり、丸い宝形造りの屋根の上に三つ鱗(みつうろこ)の寺紋が見える。塩田荘を領した塩田北条氏の由来であるのだろう。 本堂の脇に池があり、水面に林の樹々の姿を写している。参道の入口には水気のない場所に弁天堂に弁財天がお祀りされている。なぜ池のそばに弁天堂を建てないのだろう。もしかしたらすぐそばにこの池から流れる小川が流れていたのかも知れない。 「伝承では天平年間(729-749年)、行基の建立とも言い、平安時代の天長年間(824-834年)の創立とも言うが、鎌倉時代以前の歴史は判然としなく、平安時代末期には律宗寺院であったとされています。安楽寺の存在が歴史的に裏付けられるのは、鎌倉時代、実質的な開山である樵谷惟仙が住してからです。樵谷惟仙は、信濃出身の臨済宗の僧で、生没年ははっきりしないが、13世紀半ばに宋に留学し、著名な禅僧の蘭渓道隆(鎌倉建長寺開山)が来日するのと同じ船で寛元4年(1246年)、日本へ帰国したと言われております」( 安楽寺ホームページより ) ここ別所の地にある長楽寺(北向観音)、安楽寺、常楽寺を指して三楽寺といい、行基菩薩の建立と伝わる。この地に三つのお寺を建立したのは、どういう由縁であるのだろう。元々三つの元となる何かがあったのではなかろうか。 安楽寺の本堂裏手の階段を登ってゆくと森の中に三重塔がそびえている。お墓に囲まれて建てられている国宝の八角三重塔だ。 「建築様式は禅宗様(鎌倉時代に宋から禅宗に伴って伝来した様式で唐様ともいう)八角三重塔で、初重に裳階(もこし:ひさし又は霧よけの類)をつけた珍しい形式であるうえに細部も又、禅宗様の形式からなり類例が少ない。(中略)塔は印度のスツーパを起源とし、元来仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安したものだが、中世以降は特定の人物又は戦死者の供養に建てられた例が多い。資料が乏しく造塔の縁起は詳かでないが、この塔もおそらくそのような目的で建てられたものと思われる」( 安楽寺ホームページより ) 「中世以...

鐘が鳴る北向観音

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別所温泉の宿でくつろいでいると夕暮れの空に鐘の音が響いている。翌朝坂道を登って高台にある北向観音(きたむきかんのん)にお参りした。昨夜はこの鐘楼の梵鐘の音であったのだろう。 「北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場です。安和2年(969年)、平維茂は一山を修理し、三楽寺、四院、六十坊を増築したと伝えられています」( 北向観音・常楽寺ホームページより ) 北向観音のご本尊は、千手観音で北向にお祀りされているのは「北斗七星が世界の依怙(よりどころ)となるように我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」というお告げによるものであるらしい。 境内からは、上田の街並みがよく見える。本堂向かいにある桂の木は、愛染カツラといい、千手観音が影向(ようごう=神仏が一時姿を現すこと)した霊木と伝えられている。 参道を挟んで小降りのお堂が建てられている。細面の朱い愛染明王をお祀りした愛染堂だ。こちらの愛染カツラを舞台にした川口松太郎の小説「愛染かつら」は有名である。 北向観音の寺紋は笹竜胆(ささりんどう)で、源平合戦の折、木曾義仲公により堂宇が消失し、再興を行ったのが源頼朝公で、源氏の力添えがあったということで寺紋になったものらしい。 北斗七星といえば妙見信仰の妙見菩薩(みょうけんぼさつ)を思い出すが、千手観音というのが興味深い。慈覚大師の旅行記『入唐求法巡礼行記』には、当時の中国では妙見信仰が盛んであったことが記されていることから、その秘法を体得していたのかもしれない。 斜面に建てられた温泉薬師瑠璃殿(おんせんやくしるりでん)は、伝説には行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の創建、慈覚大師の再建と云われている。急峻な崖や山の斜面にへばりつくように建てられた建築を懸け造りという。境内の手水舎には、温泉が湧き出している。

強者どもの城の跡

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塩田仁古田線を西に車を走らせる。田園の中に溜池が散在している。浦野川に狭い橋を渡り細い路地の坂を登ると市営団地の70年代ぐらいに建てられたであろう長屋が並んでいた。車を停めて看板や石碑を探してみるが、なにも見つけられない。 長屋の裏手に土手が連なっている。思い切って草むらの中を抜けて、土手の頂上に登ると石の祠と石碑が建てられているのを見つけた。石碑には「岡村城の由来」と刻まれている。 「今を去る千百九拾余年前桓武天皇の後裔、權之左衛門尉(ごんのさえもんのじょう)平清氏(たいらのきようじ)弘仁二年信濃の守として當地に築城す。後地名を取り岡村権之左衛門尉平清氏と改めると共に岡村城と稱す。 清氏京都の命に依り甲刕(こうしゅう)に落府中、天長拾年五月八日自害。其後藤之木氏を経て戦国に移り浦野氏、武田に降りてより馬場美濃守信房、城を守り上杉方の名将、村上義清と対戦す。上田原、川中島の戦を経て永禄拾一年長沼城完成の間、武田軍の居城となれり。一九七二年五月八日 岡区」(岡村城の由来より 句読点ルビは筆者) この地は、桓武平氏維茂流岡村氏発祥の地であるのだ。その出自は『千曲真砂』によるとこうある。 「安和二年、桓武天皇七代の後裔余五将軍出羽介平惟茂、信州戸隠山の妖鬼退治として発向の時、長楽寺(今の別所の地)観音に詣で此処の民間賤の女に戯玉うに、其の女懐妊して一男を産む。岡村左衛門尉平清氏と号し、以後代々居住す」 石碑の残る高台は二の丸であるらしい。北側にはぐるりと外堀が残っている。この二の丸から北東の位置に三つの山がそびえている。往時には清氏公が遥拝していたのかも知れない。

生島足島の大神

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塩田平の向こう朱い大鳥居が見える。生島足島(いくしまたるしま)神社の大鳥居だ。神池の中の神島に本殿が建てられている。本殿内殿の土間が御神体と云う。 「創建の年代については明らかではありませんが、神代の昔、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)が諏訪の地に下降する途すがら、この地にお留まりになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられてたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えられています。 生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より国土の守り神と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神であります。」( 生島足島神社ホームページより ) この神池の形式は、「池心の宮園池(いけこころのみやえんち)」と称され、出雲式園池の面影を残していると云う。建御名方富命の「富」は古代出雲族の富家の名を伝えている。 建御名方富命の祀られた二柱の大神は、出雲古代神である、「幸の神(さいのかみ)」の「久那斗(くなと)の大神」と「幸姫命(さいひめのみこと)」ではあるまいか。 本殿の向かいには、摂社の諏訪神社が建てられ健御名方富命、八坂刀賣命(やさかとめのみこと)、八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)の三柱をお祀りする。 八坂刀賣命は、健御名方富命の后神で、事代主命と健御名方富命は出雲の神々であり、ここ信濃の地には古代出雲の血脈が密やかに残されている。 境内には御柱が建てられている。諏訪と同じく、申年と寅年の六年ごとに御柱大祭が行われると云う。申年のサルは幸の神三神の一柱であるサルタ彦大神に因むと云われている。 生島足島神社は日本中央の社とされ、御朱印には大八洲真中のハンコが押される。池の中に浮かぶ島は日本列島に見えなくもない。このお社は、日本列島にとっても重要な場所に建てられていることは間違いないだろう。

蕃松院の五輪塔

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新海三社神社から東へ車を5分ほど走らせると、田口城跡の麓にある蕃松院(ばんしょういん)の立派な山門が出迎えてくれた。蕃松院は曹洞宗で山号は大梁山(だいりょうざん)。御本尊は、釈迦牟尼仏(お釈迦さま)をお祀りする。蕃松院は依田信蕃(よだのぶしげ)公の戒名に由来している。 「天正十一(1583)年戦国の武将、依田信蕃公は、岩尾城を攻め、弟信幸公と共に没した。その子松平康国公、小諸城主となるや父の追福供養を念じ、その居館跡に堂宇を再建し、父の御戒名『蕃松院殿節叟良筠大居士(ばんしょういんでんせっそうりょうきんだいこじ)』より寺号を蕃松院とした」(蕃松院看板より) 本堂裏手の山の斜面に依田信蕃公と信幸公兄弟の苔むした五輪塔が残されている。近年その礎石下から愛用したと考えられる刀が発見されたそうである。こちらの山道を登ってゆくと田口城跡まで続いているらしい。山上には、多数の郭を配置した巨大な山城が残されているそうだ。往年には、依田兄弟も眼下の領域を見渡していたのだろう。 依田氏といえば、明治期に活躍した 北海道十勝平野の開拓者である依田勉三 氏を思い出す。勉三氏は、伊豆松崎の出身で、以前伊豆に旅行した際に旧依田邸である当地に訪れたことがある。不思議と依田氏にはご縁がある。もしかしたら勉三氏は信蕃公の子孫であるかもしれない。

新開の神々

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佐久田口の土蔵や土塀の並ぶ、狭い道路を抜けると鬱蒼とした森の中のお社に到着した。新海三社神社の御祭神は、佐久地方開拓の祖神である興波岐命(おぎはぎのみこと)、御父神の建御名方命(たけみなかたのみこと)、御伯父神の事代主命(ことしろぬしのみこと)、誉田別命(ほむだわけのみこと)の四柱をお祀りする。神紋は、梶の葉紋で諏訪明神の神紋である。 拝殿の勾欄(こうらん)には擬宝珠(ぎぼし)が設られており、神宮寺から移築した建物だと思われる。拝殿の裏手に三つのお社が建てられており、向かって左手の朱いお社の西本社に事代主命と誉田別命、同じく朱いお社の中本社に建御名方命、桧皮葺(ひわだぶき)の渋いお社の東本社に興波岐命をお祀りしている。誉田別命をお祀りしているのは、源頼朝公の沙汰と寄進によるものと伝えられている。 興波岐命は、新開(にいさく)神・大県(おおあがた)神・八県宿禰(やのあがたすくね)神とも称され、佐久地方開拓の祖神として古墳時代にこの地に祀られたそうである。この地の佐久の名は、御祭神の「にい・さく」に由来していると云う。 中本社と東本社の間に広場があり、ベンチが置かれて不思議な配置になっている。調べてみると境内に四つの古墳があるそうだが、今回は見つけることができなかった。朱いお社の裏手に、仏舎利塔のような石塔があり、神宮寺由来のものなのかよくわからない。 東本社裏手に、三重塔が残されている。嘉祥2年(849)神宮寺の塔として建立されたものであるそうだ。神宮寺跡は、東隣に石垣が残されており、敷地内は草むらで覆われている。 池に架けられた橋を渡ると立派な石垣に急な石段が続いている。登ってゆくと簡素な作りの絹笠(きぬがさ)社が建てられている。こちらは蚕の神様であるらしい。この裏手に東御陵と呼ばれる古墳が2基並んでいるそうだ。簡素なお社と石垣のバランスが合わない。廃仏毀釈の前は、神宮寺のお堂があったのかもしれない。 森の中の参道を下り、古い屋敷の並ぶ通りの突き当たりまで歩いてゆくと、木造の大鳥居が建てられている。大鳥居にしめ縄が巻きついている。こちらのしめ縄は龍神様であるのだろう。鳥居が境内のある山を拝して建てられているのがよくわかる。こちらの神社は神仏習合の形式であったが、古式神々を今に伝えている。