強者どもの城の跡

塩田仁古田線を西に車を走らせる。田園の中に溜池が散在している。浦野川に狭い橋を渡り細い路地の坂を登ると市営団地の70年代ぐらいに建てられたであろう長屋が並んでいた。車を停めて看板や石碑を探してみるが、なにも見つけられない。
長屋の裏手に土手が連なっている。思い切って草むらの中を抜けて、土手の頂上に登ると石の祠と石碑が建てられているのを見つけた。石碑には「岡村城の由来」と刻まれている。
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「今を去る千百九拾余年前桓武天皇の後裔、權之左衛門尉(ごんのさえもんのじょう)平清氏(たいらのきようじ)弘仁二年信濃の守として當地に築城す。後地名を取り岡村権之左衛門尉平清氏と改めると共に岡村城と稱す。
清氏京都の命に依り甲刕(こうしゅう)に落府中、天長拾年五月八日自害。其後藤之木氏を経て戦国に移り浦野氏、武田に降りてより馬場美濃守信房、城を守り上杉方の名将、村上義清と対戦す。上田原、川中島の戦を経て永禄拾一年長沼城完成の間、武田軍の居城となれり。一九七二年五月八日 岡区」(岡村城の由来より 句読点ルビは筆者)

この地は、桓武平氏維茂流岡村氏発祥の地であるのだ。その出自は『千曲真砂』によるとこうある。
「安和二年、桓武天皇七代の後裔余五将軍出羽介平惟茂、信州戸隠山の妖鬼退治として発向の時、長楽寺(今の別所の地)観音に詣で此処の民間賤の女に戯玉うに、其の女懐妊して一男を産む。岡村左衛門尉平清氏と号し、以後代々居住す」
石碑の残る高台は二の丸であるらしい。北側にはぐるりと外堀が残っている。この二の丸から北東の位置に三つの山がそびえている。往時には清氏公が遥拝していたのかも知れない。