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生島足島の大神

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塩田平の向こう朱い大鳥居が見える。生島足島(いくしまたるしま)神社の大鳥居だ。神池の中の神島に本殿が建てられている。本殿内殿の土間が御神体と云う。 「創建の年代については明らかではありませんが、神代の昔、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)が諏訪の地に下降する途すがら、この地にお留まりになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられてたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えられています。 生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より国土の守り神と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神であります。」( 生島足島神社ホームページより ) この神池の形式は、「池心の宮園池(いけこころのみやえんち)」と称され、出雲式園池の面影を残していると云う。建御名方富命の「富」は古代出雲族の富家の名を伝えている。 建御名方富命の祀られた二柱の大神は、出雲古代神である、「幸の神(さいのかみ)」の「久那斗(くなと)の大神」と「幸姫命(さいひめのみこと)」ではあるまいか。 本殿の向かいには、摂社の諏訪神社が建てられ健御名方富命、八坂刀賣命(やさかとめのみこと)、八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)の三柱をお祀りする。 八坂刀賣命は、健御名方富命の后神で、事代主命と健御名方富命は出雲の神々であり、ここ信濃の地には古代出雲の血脈が密やかに残されている。 境内には御柱が建てられている。諏訪と同じく、申年と寅年の六年ごとに御柱大祭が行われると云う。申年のサルは幸の神三神の一柱であるサルタ彦大神に因むと云われている。 生島足島神社は日本中央の社とされ、御朱印には大八洲真中のハンコが押される。池の中に浮かぶ島は日本列島に見えなくもない。このお社は、日本列島にとっても重要な場所に建てられていることは間違いないだろう。

蕃松院の五輪塔

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新海三社神社から東へ車を5分ほど走らせると、田口城跡の麓にある蕃松院(ばんしょういん)の立派な山門が出迎えてくれた。蕃松院は曹洞宗で山号は大梁山(だいりょうざん)。御本尊は、釈迦牟尼仏(お釈迦さま)をお祀りする。蕃松院は依田信蕃(よだのぶしげ)公の戒名に由来している。 「天正十一(1583)年戦国の武将、依田信蕃公は、岩尾城を攻め、弟信幸公と共に没した。その子松平康国公、小諸城主となるや父の追福供養を念じ、その居館跡に堂宇を再建し、父の御戒名『蕃松院殿節叟良筠大居士(ばんしょういんでんせっそうりょうきんだいこじ)』より寺号を蕃松院とした」(蕃松院看板より) 本堂裏手の山の斜面に依田信蕃公と信幸公兄弟の苔むした五輪塔が残されている。近年その礎石下から愛用したと考えられる刀が発見されたそうである。こちらの山道を登ってゆくと田口城跡まで続いているらしい。山上には、多数の郭を配置した巨大な山城が残されているそうだ。往年には、依田兄弟も眼下の領域を見渡していたのだろう。 依田氏といえば、明治期に活躍した 北海道十勝平野の開拓者である依田勉三 氏を思い出す。勉三氏は、伊豆松崎の出身で、以前伊豆に旅行した際に旧依田邸である当地に訪れたことがある。不思議と依田氏にはご縁がある。もしかしたら勉三氏は信蕃公の子孫であるかもしれない。

新開の神々

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佐久田口の土蔵や土塀の並ぶ、狭い道路を抜けると鬱蒼とした森の中のお社に到着した。新海三社神社の御祭神は、佐久地方開拓の祖神である興波岐命(おぎはぎのみこと)、御父神の建御名方命(たけみなかたのみこと)、御伯父神の事代主命(ことしろぬしのみこと)、誉田別命(ほむだわけのみこと)の四柱をお祀りする。神紋は、梶の葉紋で諏訪明神の神紋である。 拝殿の勾欄(こうらん)には擬宝珠(ぎぼし)が設られており、神宮寺から移築した建物だと思われる。拝殿の裏手に三つのお社が建てられており、向かって左手の朱いお社の西本社に事代主命と誉田別命、同じく朱いお社の中本社に建御名方命、桧皮葺(ひわだぶき)の渋いお社の東本社に興波岐命をお祀りしている。誉田別命をお祀りしているのは、源頼朝公の沙汰と寄進によるものと伝えられている。 興波岐命は、新開(にいさく)神・大県(おおあがた)神・八県宿禰(やのあがたすくね)神とも称され、佐久地方開拓の祖神として古墳時代にこの地に祀られたそうである。この地の佐久の名は、御祭神の「にい・さく」に由来していると云う。 中本社と東本社の間に広場があり、ベンチが置かれて不思議な配置になっている。調べてみると境内に四つの古墳があるそうだが、今回は見つけることができなかった。朱いお社の裏手に、仏舎利塔のような石塔があり、神宮寺由来のものなのかよくわからない。 東本社裏手に、三重塔が残されている。嘉祥2年(849)神宮寺の塔として建立されたものであるそうだ。神宮寺跡は、東隣に石垣が残されており、敷地内は草むらで覆われている。 池に架けられた橋を渡ると立派な石垣に急な石段が続いている。登ってゆくと簡素な作りの絹笠(きぬがさ)社が建てられている。こちらは蚕の神様であるらしい。この裏手に東御陵と呼ばれる古墳が2基並んでいるそうだ。簡素なお社と石垣のバランスが合わない。廃仏毀釈の前は、神宮寺のお堂があったのかもしれない。 森の中の参道を下り、古い屋敷の並ぶ通りの突き当たりまで歩いてゆくと、木造の大鳥居が建てられている。大鳥居にしめ縄が巻きついている。こちらのしめ縄は龍神様であるのだろう。鳥居が境内のある山を拝して建てられているのがよくわかる。こちらの神社は神仏習合の形式であったが、古式神々を今に伝えている。

瀧山寺の御仏

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真福寺から東南の位置に、鬼まつりで有名な瀧山寺がある。現在は運慶・湛慶作の仏像が有名だ。青木川沿いにある瀧山寺の山門は重文で、文永4年(1267)、飛騨権守藤原光延(ひだごんのかみふじわらみつのぶ)公が建立したものであるそうだ。 ここから瀧山寺までは車で数分の距離だ。駐車場に車を停めて石段を登ってゆくと桧皮ぶきの寄せ棟造りの本堂が現れた。瀧山寺は、吉祥陀羅尼山薬樹王院(きっしょうだらにさんやくじゅおういん)と号し、御本尊は薬師如来(やくしにょらい)。 薄暗い本堂の内陣には、薬師如来を中心に数体の御仏がお祀りされている。お線香を上げて合掌する。本堂の裏山の細い道を歩いてゆくと、小さな泉に水体薬師如来御霊水と刻まれた石碑が建てられている。水体薬師如来といえば、 真福寺 も水体薬師如来を御本尊としている。 今回は初めて宝物館で運慶・湛慶作の仏像を拝観することにした。宝物館では、極彩色に彩られた聖観音(しょうかんのん)、梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)の三尊を間近に拝することができる。こちらの聖観音には源頼朝公の御歯と御髪を納めているという。 宝物館のケースの中に平重盛公の持念仏の仏舎利の厨子が、展示してあったので驚いた。源氏ゆかりのこの寺に、敵方であった平家の持念仏があるとはどういうことだろう。調べてみるとこの厨子は、室町時代に足利氏の郎党から寄進があったようだ。重盛公は宋の育王山に黄金を寄進し、その返礼としてから宋の高僧から仏舎利を贈られていたようである。 瀧山寺の縁起は、役行者(えんのぎょうじゃ)を創始としている。瀧山寺の前に流れる青木川には「三界(さんかい)の滝」の名が残されている。 「天武(てんむ)天皇(奈良時代)の御代(みよ)、役(えん)の行者(ぎょうじゃ)小角(おづぬ)は、この地に一堂を建て吉祥寺(きっしょうじ)と称したと伝えられています。或る日、行者が修行のため渓流に沿って山中に分け入ったところ、そこに滔々(とうとう)と落下する一条の滝がありました。このあたり、まさに人跡未踏(じんせきみとう)、修道の霊地かと思われました。行者は、岩頭に坐し、経を誦(ず)すること数日、眼前の滝壺の底に大きな龍が金色(こんじき)に輝く仏像を守護しているのを発見しました。輝くもの、それが金色の薬師如来でした。行者はこの由を朝廷に奏上しましたところ鎮護国家(ちんごこ...