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鐘が鳴る北向観音

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別所温泉の宿でくつろいでいると夕暮れの空に鐘の音が響いている。翌朝坂道を登って高台にある北向観音(きたむきかんのん)にお参りした。昨夜はこの鐘楼の梵鐘の音であったのだろう。 「北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場です。安和2年(969年)、平維茂は一山を修理し、三楽寺、四院、六十坊を増築したと伝えられています」( 北向観音・常楽寺ホームページより ) 北向観音のご本尊は、千手観音で北向にお祀りされているのは「北斗七星が世界の依怙(よりどころ)となるように我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」というお告げによるものであるらしい。 境内からは、上田の街並みがよく見える。本堂向かいにある桂の木は、愛染カツラといい、千手観音が影向(ようごう=神仏が一時姿を現すこと)した霊木と伝えられている。 参道を挟んで小降りのお堂が建てられている。細面の朱い愛染明王をお祀りした愛染堂だ。こちらの愛染カツラを舞台にした川口松太郎の小説「愛染かつら」は有名である。 北向観音の寺紋は笹竜胆(ささりんどう)で、源平合戦の折、木曾義仲公により堂宇が消失し、再興を行ったのが源頼朝公で、源氏の力添えがあったということで寺紋になったものらしい。 北斗七星といえば妙見信仰の妙見菩薩(みょうけんぼさつ)を思い出すが、千手観音というのが興味深い。慈覚大師の旅行記『入唐求法巡礼行記』には、当時の中国では妙見信仰が盛んであったことが記されていることから、その秘法を体得していたのかもしれない。 斜面に建てられた温泉薬師瑠璃殿(おんせんやくしるりでん)は、伝説には行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の創建、慈覚大師の再建と云われている。急峻な崖や山の斜面にへばりつくように建てられた建築を懸け造りという。境内の手水舎には、温泉が湧き出している。

強者どもの城の跡

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塩田仁古田線を西に車を走らせる。田園の中に溜池が散在している。浦野川に狭い橋を渡り細い路地の坂を登ると市営団地の70年代ぐらいに建てられたであろう長屋が並んでいた。車を停めて看板や石碑を探してみるが、なにも見つけられない。 長屋の裏手に土手が連なっている。思い切って草むらの中を抜けて、土手の頂上に登ると石の祠と石碑が建てられているのを見つけた。石碑には「岡村城の由来」と刻まれている。 「今を去る千百九拾余年前桓武天皇の後裔、權之左衛門尉(ごんのさえもんのじょう)平清氏(たいらのきようじ)弘仁二年信濃の守として當地に築城す。後地名を取り岡村権之左衛門尉平清氏と改めると共に岡村城と稱す。 清氏京都の命に依り甲刕(こうしゅう)に落府中、天長拾年五月八日自害。其後藤之木氏を経て戦国に移り浦野氏、武田に降りてより馬場美濃守信房、城を守り上杉方の名将、村上義清と対戦す。上田原、川中島の戦を経て永禄拾一年長沼城完成の間、武田軍の居城となれり。一九七二年五月八日 岡区」(岡村城の由来より 句読点ルビは筆者) この地は、桓武平氏維茂流岡村氏発祥の地であるのだ。その出自は『千曲真砂』によるとこうある。 「安和二年、桓武天皇七代の後裔余五将軍出羽介平惟茂、信州戸隠山の妖鬼退治として発向の時、長楽寺(今の別所の地)観音に詣で此処の民間賤の女に戯玉うに、其の女懐妊して一男を産む。岡村左衛門尉平清氏と号し、以後代々居住す」 石碑の残る高台は二の丸であるらしい。北側にはぐるりと外堀が残っている。この二の丸から北東の位置に三つの山がそびえている。往時には清氏公が遥拝していたのかも知れない。